好きの時代

f:id:nademitako:20210103165720j:plain

21世紀は、好きの量と質が、その人の絶対的な価値を表す時代です。

時代を象徴する絶対的な価値は、誰もが欲します。なぜなら、その時代の特権階級となれるからです。

例えば、江戸時代は、家柄が絶対的な価値を持つ時代でした。武家に生まれると武士に、農家は農民に、職人の家は職人に、商屋は商人になりました。生まれた場所ですべて決まってしまう封建社会では、家柄こそすべてなのです。権力や財力を持った平民が欲するのは、武家の持つ特権でした。彼らは、なんとかして特権を手に入れるために、大金を積んで、武家の子弟を養子に迎えました。江戸太平の世の末期には、ほとんどの実力者が、武家の家柄と親戚関係になります。そして、有力者の誰もに、家柄が行き渡ると、絶対的な価値を失います。

家柄に変わって、台頭してきた価値は、学歴でした。明治維新以降、大卒が新たな特権階級となっていきます。それは大卒でありさえすれば、一生食べていけて、国家や地方自治体の根幹を成す要職に就けたのです。はじめは、大卒は、本当にエリートでした。大学は数えるほどしかなく、財力もあって、本当に学力のある子弟しか行けない場所でしたから、学歴は、平民の誰もが欲する価値になったのです。大卒を手に入れたい需要は、供給を産みます。日本中に大学が乱立し、大卒は誰もがお金を出せば手に入れられるようになります。そして、奨学金という名の借金をしてまでも、大卒を手に入れる状態がしばらく続きます。借金をしてもなお、大卒でありさえすれば、昭和の時代は、職にありつくことができたのです。

やがて、学歴は、臨界点を迎えます。学歴の中でも、本当に価値のあるのは、国立大学と、有名私立大学の一部のみと再定義されていきます。さらには、外国の有名大学や、国立大学や有名私大の修士号、博士号にこそ、価値がある状態となり、いわゆる無名の大卒は、職につけなくなります。つまり、借金してまでして得た誰も知らない学位に、なにも特権は付随しなくなったのです。

2020年は、使い捨てマスクが、絶対的な価値を一瞬持ちました。しかし、供給過多になった途端に、価値は消失するのです。

2021年現在、人は、好きなSNSを、好きなように見ています。つまり、好きな人を見ているのです。好かれていれば好かれているほど、フォロワーやサブスクライバーは増えます。自分の人生を見てくれる人の数が、誰もが欲する絶対的な価値です。

それと同時に、最低1人でも、特別好いてくれる人がいれば、職などという概念を超越して、生きていける時代になりました。

例えば、赤ちゃんは、両親から、特別好かれているわけです。なので、その赤ちゃんは、面倒を見てもらえるのです。

好かれていると、見てもらえます。人が見るところには、広告を入れる需要があり、人が見る状態を作り出せる人には、お金が流れ込みます。

そして、好かれている人に、自分も好かれているというのは、その人の価値に便乗できるわけですから、自分も特別な誰かだと思えるのです。人は、得になると思えば、わたしは、その人知ってるよではなく、わたしは、その人と友達だよとか話したことあるよとか世話したことあるよとか言ってくれるのです。人は、損になると思えば、そんな人知らないというのです。

あなたを好いてくれている人の量と質が、あなたの価値であり、あなたがどんな職に就いているか、どんな学歴があるか、どんな家柄かなんてことは、二の次三の次となりました。